Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳文

「身念処」1-74

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 身体の無常は、思慧で体験・会得できる。 しかし、心の無常は、(+身体より)更に微細なため、体験・会得しにくい。 姿勢を変える時、例えば、座っている色身から、立っている色身に変る時、我々は座っている色…

「身念処」1-73

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1)相続。身・心の生・滅は、かくの如く迅速なため、我々にはその生・滅の現象が見えない。故に、我々は身・心は連続しているのだと誤解してしまう。それはちょうど、銀幕上の映画の影像が、連続しているように…

「身念処」1-72

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-11 三法印を隠蔽する因縁法 三法印とは、身・心が無常・苦・無我であり続けている状態を指す。しかし、なぜ我々は、己自身の身・心において、三法印を体験することができないのであろうか? それは三法印が、あ…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」1-5

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 三帰依 比丘が念ずる:Namo tassa、 その時、受戒者は直接、この礼敬詞を三回念じるか、または比丘が一句念じて、その後に、受戒者が一句念ずる。 比丘:Namo tassa Bhagavato, Arahato Sammāsambudhassa(3x) 彼…

是誰庵のひとやすみ~「此是道汝応修」(翻訳番外編)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> マレーシアから「此是道汝応修」という本が届きました。 著者はアチャン・チャーのお弟子さん、アチャン・タン。 その中にとてもよい問答を見つけましたので、翻訳(番外編)してお送りします。 問:アチャン・タ…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」1-4

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 前篇 帰依、受戒と持戒 第一章 帰依と受戒 一、五戒(Pāañchasīla) 三帰依五戒法の求受 Ahaṃ, ahaṃ bhamte, tisaraṇena saha pañcasīlaṃ dhammaṃ yācāmi, anuggahaṃ katvā sīlaṃ detha me, bante. 尊者、私は三…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」 1‐3

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> ここにおいて特に注意して頂きたいのは; 我々はゴータマ仏陀の制定した戒律について検討しているだけであって、持戒をしない人たちを批判している訳ではありません。 在家信徒は、この書を通して、一方で、出家…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」1-1

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> <編集と翻訳についての序説> 台湾の南伝仏教(=テーラワーダ仏教、以下同様)は、未だ開墾を待たれる、未開発の荒野のようである! 多くの、テーラワーダ仏教を学びたいと思っていながら、何から始めていいの…

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-122

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 8-10-2 正念と正知 ここでは、自性に基づいて、正念と正知についての解説をする。 正念の特徴は、目標を憶念する事、覚えておく事であり、それは例えば、安般念の似相のようなものである。 その作用は、目標を見…

「身念処」1-67

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-9 サマタと vipassana 修法の違い 二種類の修行方法があり、それはサマタとvipassana 修法である。 サマタ修法 1)真実の自性は定で、平静な心の状態を生じる(+ことができる。) 2)修行の所縁は仮法(伝統…

テーラワーダ比丘の女性への態度について

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 問:尊者、なぜ、テーラワーダの比丘尊者は、見た感じ非常に厳粛で、ご自分から我々に挨拶しないし、我々を見送ったりもしないのでしょうか? 答:テーラワーダの比丘は、仏陀の教えを実践する為に、厳粛で、真剣…

「身念処」1‐65

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 妄想心も同様であって、もし、修行者が妄想心をコントロールしたいと思い、専注や(+心が長く)平静で(+あり続けたいと強く望むならば)これも貪になる。(+この時)もし、修行者が妄想をコントロールできな…

「身念処」1-64

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 三番目――潜在的な煩悩(漏): これは微細な煩悩で、例えば痴(邪見)のようなもの。 唯一、実相般若のみが、この種の潜在的な煩悩を断じ除く事ができる。 もし、三番目の煩悩を、断じ除く事ができるならば、第一…

「身念処」1-63

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 煩悩と智慧は、心に命令して、身体にしてもらいたいと思っている事柄を、身体に要求させる事ができる。 煩悩が「我々は散歩に行こう」と言う時、楽しみを探しに行く、という訳である。 智慧は、座る姿勢が痛い時…

「身念処」1-62

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-8 不善根:悪行の根源(無明煩悩) 三個の不善根がある: 貪、瞋(=怒り)、痴(=無知)。 愛(好き)は、一種の貪であり、憎(好きでない)は、一種の瞋、怒りである。 愛と憎は、同時に発生する事はない。…

「身念処」1-60

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-7 精進ー正念ー正知、如理作意と観察力 定義: a)Atapi の意味はすなわち、「精進」。 b)Sati の意味はすなわち、「正念」。 二種類の正念がある(すべての正念は、善法であるが、日常生活における「注意力の…

「身念処」1-59

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 問:<今・ここ>を観照する三心と、<今・ここ>を把握する三心は、同じものですか? 答:双方共<今・ここ>という呼び名ですが、しかし、<今・ここ>を観照する三心(思慧)と、<今・ここ>を把握する三心(…

「身念処」1-57

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 出世間法の範囲においては、涅槃が所縁となる。道心(道識)と果心(結果)は、涅槃をもって所縁となしており、煩悩を断じ除く事ができるのは、道心である。 世間の範囲における正念正知は、実相般若であり; 出…

「身念処」1-55

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 実相とは、我々が(+上述した所の)座っている色身である。 座っている色身は、無知であり、無自覚である。そして、心が所縁(座っている色身)を認識するが、心もまた実相である。 世間には二種類の実相しかな…

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-121

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> まさに、この男性が、二股の枝で、その蛇を捉まえようとする時、心の中で思う: 「私はどのようにすれば、彼を害さないで、また、私が彼に、咬まれないという状況の下で、彼を取り除く事ができるか?」 この時、…

「身念処」1-54

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> <今・ここ>には二種類ある: <今・ここの思慧>と、<今・ここの修慧>である。 <今・ここの思慧>は、一般的な修行が良好な状況であって、<今・ここの思慧>を先導者として初めて、<今・ここの修慧(実相般…

「身念処」1-53

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-6 <今・ここ>と実相 <今・ここ>は、以下のように定義する事ができる: 1)心・身の実相が顕現し、かつ、我々の貪欲とは相応しない、暫くの時間。 2)三心(明覚):すなわち、精進、正念、正知でもって心…

「身念処」1-52

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-5-2-1 刹那定(瞬間定) Vipassana の修行をする時、我々は、刹那定を利用しなければならないが、その理由は、刹那定は、いまだ六根の内にあるからである。 所縁を変える時、たとえば:座っている色身から、心…

「身念処」1-51

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-5-2 定 定の意味とは、専注、または専注の結果、であるが、近年来の理念の中では、ある種の教師は「不散乱」という、この種の、比較的広義の定義を使う場合もある。 定は、vipassanaの修行にとって有用であるが…

「身念処」1-50

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-5-1 三種類の修行の智慧(世間的智慧とは異なる智慧) 1)聞慧(注1)(文字般若): 修行する前、理論によって知ること、または経や法を聞き、討論を通して、得る知識。 2)思慧(注1)(観照般若): 修…

「身念処」1-49

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> この真理とはすなわち、心身は、無常・苦・無我であることを知ることであり、そして、心身の三法印を照見する智慧は、実相般若と呼ばれるが、実相般若は煩悩を断じ除くことができる。 Vipassana慧地は、理論であ…

「身念処」1-48

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> a)六組の vipassana慧地(Vipassana Bhumi)(基礎的知識)。 b)16階智。 c)7清浄。 Vipassana慧地は、vipassanaを修行する時、実相般若を生起させる為に我々が観照しなければならない所縁であり、その六つの…

「身念処」1-47

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-5 Vipassana(ヴィパッサナ) Vipassana(注1)は、修行者を苦の滅へと導く、唯一の修法である。 苦の滅は、仏法の最終的な目標であり、故に、修行者は、vipassana 修法とは何か、をよく理解しなければならない…

「身念処」1-46

< Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-4-8 四聖諦を体験・証悟する般若の智慧 1)苦を体験・証悟する智慧は、顛倒妄想を破り、除く事ができる。(顛倒妄想ーーすなわち、「心身は常であると妄執する」 など等。) 2)集を体験・証悟する智慧は、…

「身念処」1-45(40/203)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-4-7 道諦(第四聖諦) 道諦は、苦の滅へと、導き至る事のできる八聖道の事で、「Magga」は、道という意味である。 それは、涅槃へ通じる道であり、涅槃は、苦痛を滅し除く法(=方法)である。 八聖道を奉じる…